2015年4月5日日曜日

奥大勘場山2

森俊氏の著書と付録の地図


昨日の登山のベースとなった奥大勘場は、県道34号利賀河合線(庄川-水無線)のうち冬期閉鎖されない区間の最奥にある。実際には、夏場もゲートが閉じていて奥大勘場から先の林道は、一般車は通行出来ないことが多い。林道を利賀川沿いにずっと南進し、利賀川(水無)ダムから進路を東に変えると水無集落跡に至る。さらに進むと、大長谷から南下する国道471/472 に合流し、楢峠を越えて飛騨市河合の角川に抜ける。利賀川ダムから西に分岐する林道を辿ると牛首峠を経て白川郷へ至る。最近読んだ「五箇山利賀谷 奥大勘場民俗誌」によると、昨日のルートは、集落の人が冬期に谷沿いの雪崩を避けて水無方面へ行く時の登路とされていたらしい。
 大勘場という地名は全国的にも珍しく、恐らく富山のこの場所にしかないだろう。高山性樹木のダケカンバの当て字かなァ、と思っていたのだが、この本によるとそうではない。その昔、飛騨と利賀の人々が定期的に場所を変えて博打をうっていて、大勘場はその最後の場所だった。そこで賭博シーズンが終ると、掛け金の清算をして皆帰っていった。お金を清算することを勘場(勘定?)するといい、大勘場は総清算するという意味であった。それに因んでこの地名がつけられたという。
 利賀川沿いの大勘場から百瀬川を隔てて東にある二ツ屋街道(現在の国道471/472)は、飛騨と越中を結ぶ主要街道の一つで、街道沿いの庵谷(現在の大長谷温泉の近く)に関所があった。従って飛騨の人々が往来して、御法度であった博打をする場所として、裏街道のただ中にある大勘場にその拠点があったというのは十分考えられる。当時この場所に、飛騨を含む庄川地域のちょい悪衆が遊ぶ治外法権地帯があった、というのはなんとも魅力的な話である。大勘場の人々はそこで現金収入を得て、厳しい自然環境の下でも案外豊かな生活を送っていたとすれば愉快な気持ちになる。
 昨日下山後しばし散策しところ、集落内は除雪されておらず、残っている家屋に人の気配は無かった。人口統計ラボによると奥大勘場には現在二世帯三名の方が住民登録されているようだが、積雪期には山を下りて生活されているのかもしれない。



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